「小さくても良い」 07.09.09
ルカ福音書17:5〜10
信仰が成長することは幸いです。主の恵みに気付く信仰の目が
養われ、喜びと感謝が深まります。しかし、成長することだけに
心を奪われる必要はありません。
弟子たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と、イエスさまに
願い出ました。自分たちの信仰が弱いと感じていたのでしょう。
彼らは、自分自身を振り返り、弟子としての頼りなさや、不十分さを
感じていたのです。だからこそ立派な弟子になりたいと、真剣に
願っていたのです。弟子たちは、信仰が増し、強く大きな信仰に
なることを求めました。
イエスさまは、「からし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、
『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と
おっしゃいます。どんなに小さな信仰であっても、それで足りない
ことはないということです。更に、信仰が増すことを求める弟子たちに、
ある畑の僕と主人の話をなさいます。僕は、自分のことを「取るに
足りない」としか言えない僕で良いのです。自分の仕事の出来の
良さにも、悪さにも、心を奪われなくても良い。主人のご機嫌伺いを
しなくても良い。畑の主人が、いつも主人らしく僕と向き合うように、
イエスさまは、いつも主として弟子たちと向き合ってくださるのです。
だから、弟子たちは、自分の信仰の弱さに出会っても、あせったり、
不安になったりすることはありません。
イエスさまは、ある百人隊長の態度をご覧になって「これほどの
信仰は見たことがない」とおっしゃいました(ルカ7章)。百人隊長は、
イエスさまに病気の部下の所まで来ていただかなくても、一言
おっしゃっていただけばそれで病気は治ると信じました。自分の
信仰はともかく、イエスさまがすべてのものを治める権威をお持ちの
方だと信じていました。自分ではなく、イエスさまへの徹底的な
信頼の姿がありました。
私たちの信仰は、自分の大小よりも主の大きさに目を
注ぐのです。
どんなに小さな信仰であっても、主は、私たちの主であり続けて
くださいます。